2020年

2月

23日

「真のいのちの糧を求めて」(菊田行佳牧師)

聖書の中で最もよく知られている箇所の一つとして、今回のパンの増殖のところがあると思います。男だけで5千人といいますから、女性も併せて1万人を超える人々の必要を満たす食料を、イエスさまはここで増やしました。その奇跡を見た人々は、イエスさまを「王」にしようといたしました。つまり、食料を著しく増産する存在というのは、人間の指導者の地位に就くことが期待されるのです。しかし、イエスさまは人々の期待を裏切り、その手から逃げて行ってしまいます。それは、人を真に生かす食べものが他にあることを示すためです。(ヨハネによる福音書6章1~15節 (新174頁))

2020年

2月

16日

「起き上がって歩きなさい」(菊田行佳牧師)

キリスト教が人々に提供している「救い」には、様々な種類のものがあります。「神の恵みによって救われる」というのが、一番知られていると思われます。ただそれだけがこの信仰がもたらす救いではありません。神の恵みに自ら応答して預かって行く種類の救いもあるのです。「起き上がって歩きなさい」というみ言葉によって、長い病の縁から起こされる人が今回の聖書箇所には出てきます。何事も受け身で時が流れて行くままに身を任すことの方が、よっぽど人を病に閉じ込めてしまいます。立って雄々しく歩くことこそ信仰の実りなのです。(ヨハネによる福音書5章1~18節 (新171頁))

2020年2月16日礼拝説教原稿
「起き上がって歩きなさい」(菊田行佳牧師)
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2020年

2月

09日

「真理はあなたを自由にする」(菊田行佳牧師)

命と死、自由と不自由。このようなことは、私たちにとってとても大切なことなのですが、しかし普段意識するようなことはまれではないでしょうか。信仰というのは、そのような人間の本質的な事柄を、日常の生活から離れたところで改めて振り返るということをさせてくれます。私たちの生きている命を活性化させて、再び生きて行く力を呼び覚ましてくれるのです。もし、生きてるのに死んでいるようで、自分の意志に反して何かしらのものや事柄に心が支配されているように感じているのなら、神の言葉と出会う機会として捉えたいです。(ヨハネによる福音書8章21~36節 (新181頁))

2020 年 2 月 9 日礼拝説教原稿
「真理はあなたを自由にする」(菊田行佳牧師)
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2020年

2月

02日

「神の家は人の命を生かすところ」(菊田行佳牧師)

2020年2月2日 礼拝説教原稿
「神の家は人の命を生かすところ」(菊田行佳牧師)
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2020年

1月

26日

「罪の清めが婚礼の祝いに変わる」( 菊田行佳牧師)

カナという名前の小さな村で行われる婚礼の祝いの席に、イエスさまは招かれました。祝宴の世話係の準備が悪かったのか、それとも想定していた以上に来客者が来てしまったのかわかりませんが、用意していたぶどう酒が底をついてしまいました。イエスさまの母親はこの事態を見かねて息子に何とかするようにと要求いたします。イエスさまは初めこれを断りましたが、結局その要望を聞いて水瓶の水をすべてぶどう酒に変えられました。なぜその自らの考えを変えられたのか、その要因は変える前の水の性質にあったのだと考えられます。(ヨハネによる福音書2章1~11節 (新165頁))

2020 年 1 月 26 日礼拝説教原稿
「罪の清めが婚礼の祝いに変わる」( 菊田行佳牧師)
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2020年

1月

19日

「信仰に生きる人とは」(菊田行佳牧師)

イエスさまの最初の弟子たちは、まずイエスさまのおられる場所に共に居ることを求めました。聖書の言葉を学ぶことを、他の誰でもないイエスさまと共にいることを通して行うのが、キリスト教の信仰者なのだということです。はじめの弟子たちは、イエスさまのことをみんなバラバラな呼び方で呼んでいましたが、しかし次第に一つの信仰の終着点に行き着いて行きます。イエスさまはご自分のことを「人の子」という呼び方で呼びました。この「人の子」という呼称にこめられている意味を認識するように、信仰者は導かれて行きます。最初にこの「人の子」の呼称に最も近づいたのがナタナエルという人物です。(ヨハネによる福音書1章35~51節 (新164頁))

2020年1月19日礼拝説教原稿
「信仰に生きる人とは」(菊田行佳牧師)
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2020年

1月

12日

「世の罪を取り除く神の小羊」(菊田行佳牧師)

イエス・キリストによって授けられる洗礼において、いったい何が起こるのでしょうか。今日の聖書の言葉では、洗礼を通してこの世界から罪が取り除かれることが記されています。つまり、個人個人の洗礼において提供されるキリスト教の救いというのは、個人のことだけに留まらず、世界全体の救いということが視野に入っているのです。洗礼において、まず、この世の実情が暴かれます。この世は創造された時の秩序が酷く損なわれた、闇の中にあるのだと指摘いたします。私たちがこの世界で不安や恐れを感じるのも、実は当たり前なのです。その闇の中に小さな灯をつけて行こうという神の計画であります。(ヨハネによる福音書1章29~34節 (新164頁))

2020年1月12日礼拝説教原稿
「世の罪を取り除く神の小羊」(菊田行佳牧師)
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2020年

1月

05日

「神の霊によって新しく生まれる」 (菊田行佳牧師)

2019年1月5日礼拝説教原稿
「神の霊によって新しく生まれる」 (菊田行佳牧師)
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2019年

12月

29日

「子どもを失う悲しみ」 (菊田行佳牧師)

神の御子イエスさまが誕生した場所はベツレヘムという町でした。しかし、そこには母が安全に子どもを産める場所がなく、飼い葉桶に寝かせるしかありませんでした。息つく暇もなく、ヘロデという王が生まれたばかりの御子の命を狙ったために、神は御子の両親を導いて安全な場所に移します。町全体が危険だったのです。ヘロデ王は2歳以下の子どもたちを殺害しますが、御子を拒絶する王は小さな命に対しても無慈悲です。世界が闇に支配されていたことを良く現している出来事でした。神の御子は、この闇とどう向き合うのでしょうか。(マタイによる福音書2章13~23節 (新2頁))

2019年12月29日礼拝説教原稿
「子どもを失う悲しみ」 (菊田行佳牧師)
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2019年

12月

22日

「飼い葉桶の中の救い」 (菊田行佳牧師)

2019年12月22日説教原稿
「飼い葉桶の中の救い」 (菊田行佳牧師)
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2019年

12月

15日

「なぜ、洗礼を授けるのですか」 (菊田行佳牧師)

キリスト教に入信するときに受ける洗礼は、ヨハネという人が始めました。ヨハネはユダヤ教の改革運動としてこの洗礼を授けてしましたが、それをキリスト教が引き継いだ形で今日も行っています。ですので、ヨハネの洗礼から継承したところと、そして、さらにその内容を変容させたところがあります。継承したところを把握して、そして、さらに発展させたところを知ることが出来れば、このキリスト教の洗礼の意味が良くわかると思います。一番重要なところは、メシア、キリストが授ける洗礼は、神の霊が授与されるところです。(ヨハネによる福音書1章19~28節 (新163頁))

2019年

12月

08日

「災いを告げる言葉こそ聞くべきか」(菊田行佳牧師)

預言者の一人であるミカヤという人物は、アハブという名前の王に対して「災い」が起こることを告げました。アハブ王は、良いことではなく「災い」ばかりを告げるミカヤをとても嫌っていました。今回も、ミカヤの告げる言葉を聞きたくないという思いはありましたが、しかし一方で真実をミカヤが語ることをどうも期待していたようなのです。このようなアハブの矛盾した心の状態をどう考えたら良いでしょうか。アハブは結局、「災い」を告げる言葉を拒絶して、ミカヤを牢屋に入れてしまいます。そうしてミカヤが預言した通りに破滅を招いてしまいました。もし「災い」の言葉を聞こうとする自らのもう一つの心の方に従っていたのならと思えてなりません。(列王記上22章6~17節 (旧572頁))

2019年

11月

24日

「良い羊飼いになる条件」(菊田行佳牧師)

聖書には、羊飼いにたとえられる人々や存在が出てきます。一つは羊としての民を養い導く神です。そして、良い羊飼いとして新約聖書に出てくるイエス・キリストがあります。そして、もう一つは、神から民を預かる王や指導者たちです。この3番目の王たち人間の指導者たちが、羊を散らして追い払うばかりでいるとき、神はその羊飼いの役割を取り上げます。そして、ふさわしい適任者にその職能を任せるのです。ダビデ王家を引き継ぎ、キリストを挟んでその役目を任せられる人とは誰なのか、良い羊飼いの条件とは何なのでしょうか。(エレミヤ書23章1~6節 (旧1218頁))

2019年11月24日説教原稿
「良い羊飼いになる条件」(菊田行佳牧師)
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2019年

11月

17日

「神の祝福を届けるための選び」(菊田行佳牧師)

「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」これは、アブラムという人物が、家族が対峙することとなった大きな危機の中で聞いた神の声です。普段の安定した生活を送っている時には聞こえなかった声が、彼の不安でいっぱいになった心をとらえたのです。神が示す地に向かって父の家を出る時、神はアブラムに祝福を与えることを約束いたします。アブアムは、この祝福が与えられるという神の言葉を信じて、希望をもう一度持つことが出来ました。アブラムへの祝福は、新しい土地を得ることと子孫が与えられることです。しかし、それ以外の祝福もあるはずです。 (創世記12章1~9節 (旧15頁))

2019年11月17日 説教原稿
「神の祝福を届けるための選び」(菊田行佳牧師)
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2019年

11月

10日

「手のひらに小さい命を乗せて」( 菊田行佳牧師)

聖書には、男性の登場人物の方が圧倒的に多くでてきます。ですから、女性の登場人物がでてくる聖書箇所というのは大変貴重です。今回の聖書箇所には、女性が4人(4者)登場してきますが、どの女性も自ら良く物事を考えて、そして行動に移しています。大変な身の危険を追わされている場面でしたが、彼女たちは機転を利かせて、知恵を振り絞り、勇気ある行動によって、一人の小さな子どもの命を救い出しました。彼女たちの知恵と勇気と行動力は、それに触れる者の心を振動させます。彼女たちは、助けを求める小さな子どもの泣き声を聞いたときから、その力が呼び起こされたのです。(出エジプト記2章1~10節 (旧95頁))

2019年 11 月 10 日 説教原稿
「手のひらに小さい命を乗せて」( 菊田行佳牧師)
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2019年

11月

03日

「善悪を判断する重荷」 (菊田行佳牧師)

2019 年11月3日 説教原稿
「善悪を判断する重荷」 (菊田行佳牧師)
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2019年

10月

27日

「天地と人間を造る神」(菊田行佳牧師)

今のこの世界を造ったのは、神だと聖書は言います。どうでしょうか。今のこの世界に私たちは満足しているでしょうか。喜びの多い良いニュースよりも、悲しみや憤る暗いことの方が世界に蔓延しているように感じている方もいるでしょう。神はなぜこのような暗闇や混沌が存在している世界に、私たち人間をお造りになったのでしょうか。神は人間を「神の形」に造られました。その意味は何なのでしょうか。(創世記1章1~5,24~31節 (旧1~2頁))

2019年10月27日 説教原稿
「天地と人間を造る神」(菊田行佳牧師)
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2019年

10月

13日

「貧しさと豊かさ」 (菊田行佳牧師)

今日の聖書の言葉では、豊かな人々が貧しい人々を差別していたという教会の状況が報告されています。差別することがいけないことだということは、言うまでもないことです。しかし、「差別をしてはいけません」と言えば、差別が無くなるわけでもありません。誰をかを差別するとき、相手のことをよく理解していないだけだということがあります。もし、貧しい人々を差別するなんてとんでもないと、心から尊敬するところを見いだすことが出来れば、自ずと差別することはなくなるでしょう。貧しい人の特別な価値とはどんなものでしょうか。(ヤコブの手紙2章1~9節 (新422頁))

2019年10月13日説教原稿
「貧しさと豊かさ」 (菊田行佳牧師)
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2019年

10月

06日

「信仰に生きる人」(菊田行佳牧師)

2019年10月6日 礼拝説教原稿
「信仰に生きる人」(菊田行佳牧師)
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2019年

9月

29日

「キリストの平和にあずかる」(菊田行佳牧師)

本日の聖書の言葉では、キリスト教の信仰者というのは、キリストの平和にあずからされるためにこそ、神に招かれたのだと言われています。そのキリストの平和というのは、いったいどういった平和なのでしょうか。キリスト教において、最も大切な神からの贈り物というのは、「赦し」であります(13節)。私たちが神によってその全存在を赦されているということは、客観的な事実なのです。この事実が未来永劫決して変わることがないという点に留まり続けることが、キリストの平和であります。神は教会において、礼拝において、その赦しの事実を、私たちにくり返し深く知らせて下さいます。(コロサイの信徒への手紙3章12~17節 (新371頁))

2019年

9月

22日

「キリストに派遣される人」(菊田行佳牧師)

キリストに派遣されて、福音を人々に伝える役目の人を、使徒と言います。本日の聖書箇所では、その使徒としての資格があるとしたら、いったいどのようなものなのかが問題となっています。使徒として福音のために働いていたパウロは、コリント教会からは生活費としての金銭を受け取ろうとしませんでした。何故なら、パウロが使徒として認めることが出来ない人々が、沢山金銭を教会から受け取っていたからです。その使徒たちのことを、パウロは偽の使徒と呼び、サタンから派遣されたものたちだとまで言っています。ここまでパウロに強く言わせる理由はどういったものであったでしょうか。(コリントの信徒への手紙二11章7~15節 (新337頁))

2019年

9月

15日

「十字架による新しい創造」(菊田行佳牧師)

十字架と言えば、キリスト教のシンボルとして広く受け入れられています。何かの折に、体の前で十字を切って祈っている姿を見かけることでしょう。また、十字架のペンダントを握りしめて、必死に悲しみに耐えている人もいます。その人たちは、いったい十字架に何を求めているのでしょうか。主イエス・キリストの十字架は、信じて祈るものに、神の守りを与えてくれます。特に私たちが大きな悪を犯してしまった時ほど、裁かれ軽蔑されることから守って下さいます。そのお守りによってまた立ち上がらされ、私たちはまた新たに神さまに造られて行きます。十字架はいつもそのスタート地点です。(ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節 (新351頁))

2019年9月15日礼拝説教原稿
「十字架による新しい創造」(菊田行佳牧師)
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2019年

9月

08日

「生きるも死ぬも主の御手の中」(菊田行佳牧師)

信仰には、確かに弱いとか強いとか、あるかもしれません。信仰の強い人は、すべてのものは清いのだという教えをそのまま素直に信じて、何でも喜んで食べたり飲むことが出来ます。しかし、信仰の弱い人は、汚れることを恐れて、何かを食べたり飲んだりすることを拒んでいました。どちらも相手の立場を裁いたり、軽蔑しがちなのであります。しかし、信仰者は、生きるも死ぬも実は主のものなのです。信仰が強かろうが弱かろうが、そのことには変わりはありません。大切なのは、主の御手の中で自分の生を喜ぶことです。このために、私たちはキリスト教信仰をしているのです。(ローマの信徒への手紙14章1~9節 (新293頁))

2019 年 9 月 8 日 礼拝説教原稿
「生きるも死ぬも主の御手の中」(菊田行佳牧師)
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2019年

9月

01日

「御言葉の実践と自由について」(菊田行佳牧師)

2019年9月1日 礼拝説教原稿
「御言葉の実践と自由について」(菊田行佳牧師)
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2019年

8月

25日

「偶像と神の違いとは何か」(菊田行佳牧師)

「偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神につかえるようになる」この事が、キリスト教における救済の中の一つとして考えられています。本日の聖書箇所では、このことに忠実に留まっているテサロニケ教会の人々が大変褒められています。もうこれ以上何も教えることがないとさえ、厚く支持されているのです。それでは偶像から離れるということは、いったいどういったことを意味しているのでしょうか。偶像に仕える最も顕著な例として、お金を拝むということがあります。お金ほど私たちを縛りつけて不自由にするものはないとみ言葉・聖書は言います。いったいどうしてでしょうか。(テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節 (新374頁))

2019年8月25日 説教原稿
「偶像と神の違いとは何か」(菊田行佳牧師)
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2019年

8月

18日

「悪に負けることなく、善を持って悪に勝つ」(菊田行佳牧師)

使徒パウロは「愛には偽りがあってはいけません」と言います。つまり偽善的で表面的なものではなく、真実の愛と呼べるような誠実さで隣人に向かうことを求めるのです。このことは主イエスさまも同じです。神を愛するのと同じ愛で隣人を愛することを求められました(マルコ福音書12章30~31節)。キリスト教が愛の宗教と言われるゆえんです。ただどうでしょうか。どうして誠実な愛によって隣人と関わらなくてはいけないのでしょうか。そうしないと神によって救われないからなのでしょうか。偽りの愛のままでは救いからもれるのでしょうか。そのことをごいっしょに考えましょう。(ローマの信徒への手紙12章9~21節 (新292頁))

2019年8月18日 説教原稿
「悪に負けることなく、善を持って悪に勝つ」(菊田行佳牧師)
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2019年

8月

11日

「神の御心によって苦しむことがある」(菊田行佳牧師)

キリスト教は、神の愛を人々に伝えることがその目的にあります。よって基本的には人々に好意を持って受け入れられます。しかし、神の愛は人間の慣習や伝統とぶつかってしまうことがあるのです。例えば「男性を建てて女性を卑しめる」という伝統が色濃く残っている地域において、「男も女も等しく神は愛されている」と発言することは危険です。我々の土地の平和を乱さないでくれ!と反発を受けるのです。正しいと信じることで苦しみを受けることがあるのですね。それでも言葉でなくとも神の愛を示すことが出来ます。等しく誰をも愛する神を、その振る舞い方で現して行けるのです。(ペトロの手紙一3章13~22節 (新432頁))

2019年

8月

04日

「わたしの喜びである愛する人たち」 (菊田行佳牧師)

2019年8月4日礼拝説教原稿
「わたしの喜びである愛する人たち」 (菊田行佳牧師)
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2019年

7月

14日

「心の汚れを清めるもの」(菊田行佳牧師)

使徒言行録という聖書の文書には、イエスさまが天に召された後の教会の歴史が記されています。そこには初め教会はユダヤ人だけで構成されたことが記されています。何故ならユダヤ人だけが清くて他の国の人々は汚れているとしていたからです。しかし、復活の主イエスは、すべての人、そしてすべての生きとし生けるものを清めることによってこの両者の違いを撤廃なされました。そして、人を汚すのは、実は人の心なのだと明示したのです。人の心を清めることで、違いを越えて一致と平和が真にもたらされます。(使徒言行録11章4~18節 (新235頁))

2019年

7月

07日

「寂しい道を行く恵み」(菊田行佳牧師)

2019年7月7日 説教原稿
「寂しい道を行く恵み」(菊田行佳牧師)
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